私たちは、二度とこのような戦争を起こしてはいけないし、このような犠牲者を出してはいけません。
振武隊 陸軍特別攻撃隊 第二十三振武隊隊長 伍井芳夫中佐
命を懸けて日本を守ろうとした特攻隊員。私たちは彼らのためにも、何としても今の平和を死守しなければなりません。 カラーに描く→
子犬を抱く特攻隊員 出撃直前の特攻隊員(実際には天候により翌日早朝)
まだ、全員十代であったそうです。特攻服より、今の高校野球のユニフォームが似合いそうな若者たちです。子犬を抱いた時、故郷の野山、ご両親、ご家族、友達に思いを馳せたに違いありません。
前列左から、早川勉 伍長(18歳)、荒木幸雄 伍長(17歳)、千田孝正 伍長(18歳)。
後列左から、高橋要 伍長(18歳)、高橋峯好 伍長(17歳) カラーに描く→
出撃する第20振武隊穴澤利夫少尉とそれを見送るなでしこ隊(知覧高等女学校生徒) この絵を描いていて気が付いたのは、女学生がほとんど、横を向いたり、下を見たりしていることです。恐らく数時間後の特攻隊員のことを考えると、正視できなかったのでしょう。送る方も送られる方もこんな悲劇的な別れのシーンは、古今東西みても無かったでしょう。カラーに描く→
鳥濱トメさんと特攻隊員 鹿児島県知覧は、戦争末期「特攻隊」の最前線基地となり、毎日のように知覧から沖縄へ出撃したそうです。特攻隊員はその出撃前のわずかな日々を鳥濱トメさんが営む富屋食堂で過ごし、鳥濱トメさんを母のように慕ったそうです。その鳥濱トメさんは、まだ10代から20代の特攻隊員に私財を投げうってまで、特攻隊員に尽くしたそうです。カラーに描く→
鳥濱トメさん(1902-1992) あの空を見上げて、何度涙を流したことでしょう カラーに描く→
卓 庚鉉(日本名 光山文博)少尉
朝鮮人でありながら、特攻を志願し、特攻で散っていった人物。日本に一家で出稼ぎに来た光山文博は、苦学の末日本の学校を卒業し兵役志願して、特攻隊員となった。知覧では、冨屋食堂の鳥濱トメさんを慕い、またトメさんも朝鮮人である不憫さを知って、特にかわいがっていたそうです。特攻前日、冨屋食堂で母国、朝鮮の「アリラン」を歌い、トメさん家族も泣きながらも合唱したという。その話は、映画「ホタル」でも紹介されています。カラーに描く→
宮川三郎 少尉 出撃の前日に冨屋食堂の鳥濱トメさんに明日ホタルになって冨屋食堂に帰ってくると約束をして、その約束を果たした話は有名です。映画「ホタル」のモデルになった人です。
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旧上田飛行場(長野県上田市)で訓練を受けた特攻隊員たち〈信濃毎日新聞デジタルより〉
この上田飛行場で特攻隊員の飛行訓練を指導していた遊佐卯之助(ゆさ・うのすけ)准尉が、終戦直後の8月18日に、送りだした特攻隊員の後を追うように妻子を道連れに自決するという悲劇も起こりました。カラーに描く→
昭和20年(1945)8月19日没 谷藤徹夫 行年 24歳
昭和20年(1945)8月19日没 谷藤朝子 行年 26歳 カラーに描く→
1945年8月15日の終戦直後、ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破って満州に侵攻してきた。ソ連軍の大虐殺、凌辱の状況に関東軍総司令部の降伏命令に背いて、自らを「神州不滅特別攻撃隊」と命名し、ソ連戦車隊に特攻した者がいた。谷藤徹夫ら11名の飛行隊である。前日に特攻の決意を告げられた妻朝子は、自らも夫と特攻機に同乗して、徹夫と共に散りたいと懇願して、徹夫もこれを受け入れる。そして、8月19日に白いワンピースをきた朝子と共に徹夫はその意志を果たした。
お薦め⇒元振武隊特攻隊員 鳥谷邦武氏の貴重なお話が聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=wAfWQFbAI2c
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