昭和30年代のお正月のスナップ写真をカラーで描く
大正時代の婚礼写真をカラーで描く
戦時下の婚礼写真をカラーで描く
昭和の台所 「お母さん、今日、学校でね・・」「へぇーそうなの・・」 夕方の台所から、そんな子どもとお母さんの楽しい会話が聞こえてきそうな写真です。
今では、珍しくなった裸電球。竹の笊籠(ざるかご)。その向こうに食材の肉を包んだ懐かしい〈竹の皮〉が見えます。流し台もレトロです。
遠くから、自転車に乗ったお豆腐屋さんが、ラッパを吹きながら近づいてくるような気がします。
昭和30年代の子どもたち この頃の子どもたちの笑顔は、屈託がなかったです。
かわいい舞子さん カメラマンの練りに練ったスチュエーション(構図・人物の配置・場所の設定)の意図が強く感じらる写真です。ただ、カメラマンは、どんなにかこれを総天然色(カラー写真)で撮影でしたかったことでしょう。
昔の伊香保温泉をカラーで描く 昔の写真はモノクロ写真のため、昔はあたかも色の無い世界のような錯覚がありますが、実際に絵にしますと想像以上のカラフルさであることがわかります。
昭和30年代の映画館前 老いも若きも、男も女も食い入るように映画のスチール写真に見入っています。いかに映画が人気であったかがわかります。
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ペリー提督 Matthew Calbraith Perry (1794-1858) 黒船で初めて日本列島近づいたとき、やはり富士の山の美しさと壮大さに感動したのではないでしょうか。モノクロ写真をカラーに
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近藤勇 天保5年―慶応4年(1834-1868) この人にものを頼まれたら、「いや、それは・・」と言えない迫力。
この頃は、写真を撮る時は、手を隠した方が良いと信じられていたようで、坂本龍馬などもよく見ると手を隠しているようです。
土方歳三 天保6年ー明治2年(1835-1865) 映画などで演じる際は、この時のこの服装を黒づくめのコスチュームにするようですが、あえてイケメンに相応しく、お洒落に赤いシャツに緑の艶のある上着にしてみました。再度モノクロ化した写真を見ても、あり得ない色使いではないと思います。
坂本龍馬 天保6年ー慶応年 (1836-1867) 土佐藩士の家に生まれ、亀山社中(海援隊)を結成。薩長同盟の成立、倒幕、明治維新に関与したと言われている。1867年京都・近江屋にて暗殺される。
最後の侍 幕末、外国との交渉に臨んだ薩摩藩の代表だそうです。
真ん中の人物など完全にポーズをとっていて、時代劇映画のポスター写真のようです
福澤諭吉 天保5年ー明治34年 (1835-1901) 明治の代表的な啓蒙思想家。万延元(1860)年から慶応3(1867)年にかけて幕府の遣欧米使節に3度参加し、『西洋事情』等の著作を通じて欧米文化を紹介した。慶応4年慶応義塾を創設。『学問のすすめ』(1872)、『文明論之概略』(1875)など多数の著作を発表した。
上の写真は、福澤諭吉が文久2(1862)年、文久遣欧使節として渡欧したさいにオランダのユトレヒト撮影された写真で、2008年、ユトレヒトで発見されたそうです。
伊藤博文 天保12年ー明治42年(1841-1909) 明治時代に、4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣を務めたことで知られる。一次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、二次内閣では日清講和条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治に道を開いた。
(Wikipediaより)
渋沢 栄一 天保11年ー昭和6年(1840-1931) 日本の明治・大正期の実業家、財界の指導者。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。(Wikipediaより)
陸奥亮子 安政3年ー明治33年(1856-1900) 明治時代の政治家で外交官でもあった伯爵・陸奥宗光の妻。日本赤十字社正社員。その美貌 と聡明さによって「ワシントン社交界の華」と呼ばれた。(Wikipediaより)本当に美しく気品があります。当時の社交界の舞台、鹿鳴館を背景にしてみました。
織田信福(のぶよし)安政7年ー大正15年(1860-1926)高知県最初の歯科医。若い頃は武闘派で、爆弾などを作って活動した自由民権運動家だったそうです。昔のモノクロ写真でイケメンといったら、必ずといっていいほど出てきます。
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女武者 明治時代の今で言うコスプレ写真 好きな色で描いていると思われるかもしれませんが、カラー化した肖像画を再びモノクロ化しますと、根拠の無い色使いでないことがわかると思います。
夏目漱石 慶応3年ー大正5年 (1867-1916) 日本の教師・小説家・評論家・英文学者・俳人。
代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。
新宿区早稲田にあった「漱石山房」での写真。漱石が明治40年(1907)9月から大正5年(1916)12月に亡くなるまでの9年間をここで過ごし、芥川龍之介ら文士が集ったそうです。ただ、冬場は床板にペルシャ絨毯一枚、火鉢だけでは寒いと嘆いています。
野口英世 明治9年ー昭和3年(1876-1928) 1876年福島に生まれる。幼年期に左手に大やけどを負うが、その治療に感動し、医学の道に進む決心をする。苦学の末、1911年アメリカで梅毒スピロヘータの純粋培養に成功。1918年エクアドルで黄熱病の病原体を発見(正確にはワイル氏病と言われる)。1927年再び黄熱病の研究をガーナで始めるが、本人が黄熱病にかかり死去。
御前会議 第1回御前会議 1938年(昭和13年)1月11日 明治宮殿 東一の間
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山本五十六 元帥 明治17年ー昭和18年(1884-1943) この人に関する映画などで、数々の名優がこの人を演じてきましたが、やはりご本人の風格に勝る人はいなかったように思います。
モノクロ写真をカラーに
太宰治 明治42年ー昭和23年(1909 - 1948) 1946年、写真家林忠彦氏が撮影した銀座のバー「ルパン」での有名なモノクロ写真。この時同席していたのが織田作之助、坂口安吾とされる。この写真の2年後に玉川上水に身を投げてしまいます。
坂口安吾 明治39年ー昭和30年(1906-1955)戦前から戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する小説家。代表作「堕落論」「白痴 」「不連続殺人事件 」等。
この写真も林忠彦氏撮影。林忠彦氏は、この部屋をみるなり「これだ!」と叫んだという。
よく、タバコと蚊取り線香の火で火事にならなかったものかと感心してしまいます。
織田作之助 大正2年ー昭和22年(1913-1947)日本の小説家。戦後、太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に無頼派、新戯作派と呼ばれ「織田作(おださく)」の愛称で親しまれる。代表作『夫婦善哉』この頃の文士は、結核という死の恐怖と隣り合わせだったようです。織田作之助もその恐怖からお酒、ヒロポンに頼ったようです。この写真が撮影された翌年、33歳という若さで結核で亡くなっています。この写真も太宰治を撮影した林忠彦氏の作品。太宰治と同じルパンでの同日の撮影で、左端に太宰治がいたという。
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双葉山 明治45年ー昭和43年(1912-1968)戦前、大相撲で69連勝を遂げた力士。戦前のヒーロー的存在でした。未だにその記録は破れていません。引退後は後進の指導にあたり、日本相撲協会の理事長などを務めた。
ボニーとクライド(Bonnie Elizabeth Parker and Clyde Chestnut Barrow)撮影1933年頃
この二人の話は映画「俺たちに明日はない」の他、いくつかの映画・小説・舞台・音楽などに取り上げられています。
私たちは、二度とこのような戦争を起こしてはいけないし、このような犠牲者を出してはいけません。
振武隊 陸軍特別攻撃隊 第二十三振武隊隊長 伍井芳夫中佐
命を懸けて日本を守ろうとした特攻隊員。私たちは彼らのためにも、何としても今の平和を死守しなければなりません。
子犬を抱く特攻隊員 出撃直前の特攻隊員(実際には天候により翌日早朝)
まだ、全員十代であったそうです。特攻服より、今の高校野球のユニフォームが似合いそうな若者たちです。子犬を抱いた時、故郷の野山、ご両親、ご家族、友達に思いを馳せたに違いありません。
前列左から、早川勉 伍長(18歳)、荒木幸雄 伍長(17歳)、千田孝正 伍長(18歳)。
後列左から、高橋要 伍長(18歳)、高橋峯好 伍長(17歳)
出撃する第20振武隊穴澤利夫少尉とそれを見送るなでしこ隊(知覧高等女学校生徒) この絵を描いていて気が付いたのは、女学生がほとんど、横を向いたり、下を見たりしていることです。恐らく数時間後の特攻隊員のことを考えると、正視できなかったのでしょう。送る方も送られる方もこんな悲劇的な別れのシーンは、古今東西みても無かったでしょう。
鳥濱トメさん (1902-1992) あの空を見上げて、何度涙を流したことでしょう。
鳥濱トメさんと特攻隊員 鹿児島県知覧は、戦争末期「特攻隊」の最前線基地となり、毎日のように知覧から沖縄へ出撃したそうです。特攻隊員はその出撃前のわずかな日々を鳥濱トメさんが営む富屋食堂で過ごし、鳥濱トメさんを母のように慕ったそうです。その鳥濱トメさんは、まだ10代から20代の特攻隊員に私財を投げうってまで、特攻隊員に尽くしたそうです。
卓 庚鉉(日本名 光山文博)少尉
朝鮮人でありながら、特攻を志願し、特攻で散っていった人物。日本に一家で出稼ぎに来た光山文博は、苦学の末日本の学校を卒業し兵役志願して、特攻隊員となった。知覧では、冨屋食堂の鳥濱トメさんを慕い、またトメさんも朝鮮人である不憫さを知って、特にかわいがっていたそうです。特攻前日、冨屋食堂で母国、朝鮮の「アリラン」を歌い、トメさん家族も泣きながらも合唱したという。その話は、映画「ホタル」でも紹介されています。
宮川三郎 少尉 出撃の前日に冨屋食堂の鳥濱トメさんに明日ホタルになって冨屋食堂に帰ってくると約束をして、その約束を果たした話は有名です。映画「ホタル」のモデルになった人です。
映画 〈東京物語〉 1953年公開 小津安二郎監督 世界でも評価されている日本の名画。笠智衆は49歳でこの役を演じたという。左から東山千栄子・原節子・笠智衆
映画 〈七人の侍〉 1954年公開 黒沢明監督 この映画も世界に誇る名作です。この映画に刺激された海外の監督が沢山いるそうです。左から三船敏郎・加藤大介・千秋実・木村功・稲葉義男・宮口精二・志村喬
映画 <切腹> 1962年公開 仲代達也主演 私はこの映画を人に観るようによく薦めるのですが、このタイトルのイメージのせいか、なかなか観てもらえません。痛快時代劇映画でもあるし、武士道のみならず、現代社会にも通ずる「本音と建前」の本質を突く名画だと思います。
映画 〈愛と死をみつめて〉1964年公開 「♪病葉(わくらば)を今日も浮かべて 街の谷 川は流れる♪」当時流行っていた「川は流れる」を、不治の病に冒されたミコ(吉永小百合)とそれを支える恋人のマコ(浜田光夫)が病院の屋上で歌う印象的なシーンです。この映画も昭和を代表する映画の一つでしょう。大阪を舞台に1964年の作品です。左の堂島川に始まったばかりの阪神高速道路の建設工事の様子がうかがえます。
チャップリン (1889-1977)(Sir Charles Spencer Chaplin)
「チャップリンの移民」(17)、「キッド」(21)、「黄金狂時代」(25)、「街の灯」(31)や「モダン・タイムス」など無声映画の監督・脚本・製作・主演を務めた。「ライムライト」(52)はアカデミー作曲賞を受賞したが、次第に共産主義思想を疑われ、米国から入国を禁止され、スイスで晩年を過ごした。上の絵は、「キッド」の一場面。
グレース・ケリー(1929-1982) (Grace Patricia Kelly)
オードリー・ヘップバーン(1929-1993) (Audrey Hepburn)
映画 <ローマの休日> 1953年公開 アメリカ映画 カフェテラスでためらいなくシャンパンを頼むアン王女(オードリー・ヘップバーン)に対し、お金の無い新聞記者(グレゴリー・ペック)はアイスコーヒーを頼み、あきれ顔で乾杯をして、思わず「クスッ」となるシーン。
制作者 松野敏明