昭和30年代のお正月のスナップ写真をカラーで描く
大正時代の婚礼写真をカラーで描く
戦時下の婚礼写真をカラーで描く
The 昭和 「お母さん、今日、学校でね・・」「へぇーそうなの・・」 夕方の台所から、そんな子どもとお母さんの楽しい会話が聞こえてきそうな写真です。
今では、珍しくなった裸電球。竹の笊籠(ざるかご)。その向こうに食材の肉を包んだ懐かしい〈竹の皮〉が見えます。流し台もレトロです。
遠くから、自転車に乗ったお豆腐屋さんが、ラッパを吹きながら近づいてくるような気がします。
昭和30年代の子どもたち この頃の子どもたちの笑顔は、屈託がなかったです。
かわいい舞子さん カメラマンの練りに練ったスチュエーション(構図・人物の配置・場所の設定)の意図が強く感じらる写真です。ただ、カメラマンは、どんなにかこれを総天然色(カラー写真)で撮影でしたかったことでしょう。
昔の伊香保温泉をカラーで描く 昔の写真はモノクロ写真のため、昔はあたかも色の無い世界のような錯覚がありますが、実際に絵にしますと想像以上のカラフルさであることがわかります。
伊藤博文(1841-1909) 明治時代に、4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣を務めたことで知られる。一次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、二次内閣では日清講和条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治に道を開いた。
(Wikipediaより)
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山本五十六 元帥(1884-1943) この人に関する映画などで、数々の名優がこの人を演じてきましたが、やはりご本人の風格に勝る人はいなかったように思います。
モノクロ写真をカラーに
ペリー提督 Matthew Calbraith Perry (1794-1858) 黒船で初めて日本列島近づいたとき、やはり富士の山の美しさと壮大さに感動したのではないでしょうか。モノクロ写真をカラーに
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女武者 明治時代の今で言うコスプレ写真 好きな色で描いていると思われるかもしれませんが、カラー化した肖像画を再びモノクロ化しますと、根拠の無い色使いでないことがわかると思います。
近藤勇(1834-1868) この人にものを頼まれたら、「いや、それは・・」と言えない迫力。
この頃は、写真を撮る時は、手を隠した方が良いと信じられていたようで、坂本龍馬などもよく見ると手を隠しているようです。
土方歳三(1835-1865) 映画などで演じる際は、この時のこの服装を黒づくめのコスチュームにするようですが、あえてイケメンに相応しく、お洒落に赤いシャツに緑の艶のある上着にしてみました。再度モノクロ化した写真を見ても、あり得ない色使いではないと思います。
最後の侍 幕末外国との交渉に臨んだ薩摩藩の代表だそうです。
真ん中の人物など完全にポーズをとっていて、時代劇映画のポスター写真のようです。
渋沢 栄一(1840-1931) 日本の明治・大正期の実業家、財界の指導者。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。(Wikipediaより)
陸奥亮子(1856-1900) 明治時代の政治家で外交官でもあった伯爵・陸奥宗光の妻。日本赤十字社正社員。その美貌 と聡明さによって「ワシントン社交界の華」と呼ばれた。(Wikipediaより)本当に美しく気品があります。当時の社交界の舞台、鹿鳴館を背景にしてみました。
織田信福(のぶよし)(1860-1926)日本の民権運動家。高知県最初の歯科医でもあるそうです。(Wikipediaより)イケメンで有名で、昔のモノクロ写真といったら、必ずと言っていいほど出てきます。
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野口英世(1876-1928) 1876年福島に生まれる。幼年期に左手に大やけどを負うが、その治療に感動し、医学の道に進む決心をする。苦学の末、1911年アメリカで梅毒スピロヘータの純粋培養に成功。1918年エクアドルで黄熱病の病原体を発見(正確にはワイル氏病と言われる)。1927年再び黄熱病の研究をガーナで始めるが、本人が黄熱病にかかり死去。
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太宰治(1909 - 1948) 1946年、林忠彦氏が撮影した銀座のバー「ルパン」での有名なモノクロ写真をカラーで描く。
双葉山 (1912-1968)戦前、大相撲で69連勝を遂げた力士。戦前のヒーロー的存在でした。未だにその記録は破れていません。引退後は後進の指導にあたり、日本相撲協会の理事長などを務めた。
ボニーとクライド(Bonnie Elizabeth Parker and Clyde Chestnut Barrow)撮影1933年頃
この二人の話は、映画「俺たちに明日はない」の他、いくつかの映画、小説、舞台、音楽などに取り上げられています。
私たちは、二度とこのような戦争を起こしてはいけないし、このような犠牲者を出してはいけません。
振武隊 陸軍特別攻撃隊 第二十三振武隊隊長 伍井芳夫中佐
命を懸けて日本を守ろうとした特攻隊員。私たちは彼らのためにも、何としても今の平和を死守しなければなりません。
子犬を抱く特攻隊員 出撃直前の特攻隊員(実際には天候により翌日早朝)
まだ、全員十代であったそうです。特攻服より、今の高校野球のユニフォームが似合いそうな若者たちです。子犬を抱いた時、故郷の野山、ご両親、ご家族、友達に思いを馳せたに違いありません。
前列左から、早川勉 伍長(18歳)、荒木幸雄 伍長(17歳)、千田孝正 伍長(18歳)。
後列左から、高橋要 伍長(18歳)、高橋峯好 伍長(17歳)
出撃する第20振武隊穴澤利夫少尉とそれを見送るなでしこ隊(知覧高等女学校生徒) この絵を描いていて気が付いたのは、女学生がほとんど、横を向いたり、下を見たりしていることです。恐らく数時間後の特攻隊員のことを考えると、正視できなかったのでしょう。送る方も送られる方もこんな悲劇的な別れのシーンは、古今東西みても無かったでしょう。
鳥濱トメさんと特攻隊員 鹿児島県知覧は、戦争末期「特攻隊」の最前線基地となり、毎日のように知覧から沖縄へ出撃したそうです。特攻隊員はその出撃前のわずかな日々を鳥濱トメさんが営む富屋食堂で過ごし、鳥濱トメさんを母のように慕ったそうです。その鳥濱トメさんは、まだ10代から20代の特攻隊員に私財を投げうってまで、特攻隊員に尽くしたそうです。
卓 庚鉉(日本名 光山文博)少尉
朝鮮人でありながら、特攻を志願し、特攻で散っていった人物。日本に一家で出稼ぎに来た光山文博は、苦学の末日本の学校を卒業し兵役志願して、特攻隊員となった。知覧では、冨屋食堂の冨濱トメさんを慕い、またトメさんも朝鮮人である不憫さを知って、特にかわいがっていたそうです。特攻前日、冨屋食堂で母国、朝鮮の「アリラン」を歌い、トメさん家族も泣きながらも合唱したという。その話は、映画「ホタル」でも紹介されています。
三船敏郎 百年に一人と言ってよい程の渋くて男性的な俳優
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八千草薫 素晴らしい被写体の前で、カメラマンの手の震えと感動が伝わるようです。
吉永小百合 ご本人の神秘的な美しさがどうしても表現できません。
グレース・ケリー(1929-1982) (Grace Patricia Kelly)
オードリー・ヘップバーン(1929-1993) (Audrey Hepburn)
ローマの休日 カフェテラスでためらいなくシャンパンを頼むアン王女(オードリー・ヘップバーン)に対し、お金の無い新聞記者(グレゴリー・ペック)はアイスコーヒーを頼み、あきれ顔で乾杯をする有名なシーン。