☆このサイトの作品画像は、AIの技術など一切使用していません。すべて手描きです。
近藤勇 天保5年―慶応4年(1834-1868)幕末の動乱期に、京都の治安維持を目的に新選組が結成された。その局長が近藤勇であった。農家出身でありがら、剣術にたけてたという。攘夷を主張する長州藩などと対立し、長州藩などの一橋慶喜や京都守護職であった松平容保の暗殺計画知った新撰組は、テロ計画の密談をしていた池田屋を急襲、彼らを殺害、捕縛し、一躍その名を世間に轟かせた。その後の戊辰戦争で新政府軍に捕えられ、斬首された。
まさに、局長に相応しい面構えである。

土方歳三 天保6年ー明治2年(1835-1865) 剣術道場「試衛館」で近藤勇と出会う。二人とも農家出身でありながら武士を目指した。新選組を結成すると、土方は近藤勇の下で、鉄の掟「局中法度」をつくり、鬼の副長として隊を統率した。近藤勇の死後も旧幕府軍の中心人物の一人として蝦夷地(北海道)へ渡り、五稜郭を拠点に新政府軍と最後まで戦い抜いたが、新政府軍と応戦中、馬上で被弾して絶命したといわれている。
とにかくモテモテで、京都の芸妓や舞子から山のようなラブレターが届いたという。

齋藤󠄁 一(さいとう はじめ)天保15年ー大正4年(1844-1915)は、新選組で三番隊組長や撃剣師範(剣術指導係)を務め、沖田総司や永倉新八と並ぶ「新選組最強剣士」のひとりとして活躍した。戊辰会津戦争では、最後まで会津のために戦い抜いた。会津戦争降伏後は名前を藤田五郎と改名。明治政府の警察官となり、西南の役では抜刀隊としてその剣術を遺憾なく発揮した。警察を退官した後は、東京高等師範学校(現・筑波大学)の看守(守衛長」を務める。最後は、床の上で正座をしたまま息を引き取ったと伝えられる。「死んだら会津に墓を建ててくれ」との遺言通り、現在は福島県会津若松市の阿弥陀寺に眠っているそうです。忠誠を守り、散り際も美しく、まさに武士道の鑑のような人で、この人こそ最後の侍だったのでしょう。(この写真は、53歳頃撮影)